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エディンバラ (HMS Edinburgh, C16) は、イギリス海軍のタウン級軽巡洋艦。 ==艦歴== エディンバラはスワン・ハンター社で1936年12月30日起工。1938年3月31日に進水し、1939年7月6日竣工した。就役後エディンバラは本国艦隊の第18巡洋艦戦隊に編入され、アイスランド・フェロー諸島間の警備に当たっていた。1939年に第2巡洋艦戦隊に編入された。 1939年10月16日、ドイツ空軍によるローサイスの海軍基地に対する攻撃で、フォース湾にいたエディンバラは軽微な損害を受けたが直撃弾はなかった。 10月3日、エディンバラはローサイスを離れノルウェーのナルビクとの間での船団護衛任務に就いた。11月23日、船団護衛中の仮装巡洋艦ラワルピンディが攻撃を受け撃沈された。エディンバラはドイツの通商破壊艦、巡洋戦艦シャルンホルストの捜索に派遣されたが、捜索は不成功に終わり、船団護衛任務に戻った。 1940年3月18日、エディンバラはタイン川に到着し、10月28日まで長い修理をおこなった。修理後エディンバラは再び第18巡洋艦戦隊に編入された。11月18日、クライド川沿いのファスレーン海軍基地を離れ、フリータウン(現在のシエラレオネの首都)まで兵員を乗せた船団を護衛した後、11月12日にスカパ・フローに戻った。クリスマスの少し前、エディンバラは北大西洋へ進出したと報告されたドイツの通商破壊艦の捜索に参加した。捜索部隊は巡洋戦艦フッド、エディンバラと駆逐艦エレクトラ、エコー、エスカペイド、コサックからなっていた。海上での一週間の捜索の後、報告が誤りであると判明し大晦日に港に戻った。 冬の間、エディンバラはいくつかの小規模な作戦に参加した。その一つには1941年3月4日のクレイモア作戦の支援がある。この作戦は、成功した連合軍によるドイツ占領下のロフォーテン諸島攻撃である。その後は再び船団護衛任務に就いた。エディンバラはWS7船団を中東まで護衛し、ジブラルタルで燃料補給をして4月15日にスカパ・フローに帰還した。それから、デンマーク沿岸での機雷敷設を数度支援した。 エディンバラはドイツ戦艦ビスマルクの追撃戦にも参加した。ビスケー湾での哨戒中、1941年5月22日にドイツ船レヒを阻止した。それからエディンバラはビスマルクの推定位置へ向かうよう命じられたが、結局敵とは遭遇しなかった。 6月1日、エディンバラはスカパ・フローを出撃し、ダイドー級軽巡洋艦ハーマイオニーと交代してデンマーク海峡の哨戒に就くよう命じられた。平穏無事に終わったこの任務後、中東行きの船団WS9Bの護衛を命じられた。7月はじめにジブラルタルでドック入りした。その月の後半はサブスタンス作戦に参加し7月24日にマルタに着いた。翌日、ドイツ軍機の攻撃を受けるが損害はなく、クライド川に戻った。 1941年8月、エディンバラは南アフリカのサイモンズタウンへ向かうWS10船団を護衛した。その後は再びハルバード作戦でマルタ行きの船団を護衛、9月28日にマルタに到着した。ジブラルタルに戻ったエディンバラは1941年10月1日にそこを出発してクライド川へ向かった。ファスレーンで修理を行い、エディンバラは再び本国艦隊に加わった。 1941年12月、PQ6船団とQP4船団を護衛した。両船団とも無事に目的地に到着した。1942年1月から3月までエディンバラはタインで修理をおこなった。 エディンバラはソ連行きとソ連から戻る船団(PQ13、QP9)を護衛して3月28日にスカパ・フローに帰還。4月6日、エディンバラはスカパ・フローを出撃、ソ連行きの船団PQ14を護衛してソ連へ向かった。船団の船24隻の内16隻は氷と悪天候のためアイスランドへ引き返し、1隻がUボートに沈められた。4月19日に残りの7隻とエディンバラはムルマンスクに到着した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エディンバラ (軽巡洋艦)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 HMS Edinburgh (16) 」があります。 スポンサード リンク
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